少数派への差別の心は誰にでもある

i-think ふと思うこと

よく比較される2大事件

京都アニメーション事件から1年が経ち(2020年現在)、各種メディアでは大々的に取り上げられました。
私は仕事柄、複数の新聞に目を通す機会があるのですが、どの新聞社も何面にも渡って取り上げていました。
それだけ、事件としてのインパクトが大きく、世間の関心も高かったことが伺えます。
もちろん、大勢の方々が亡くなりましたし、とてもショッキングな事件だったと思います。

ここで、起きた年は違うものの時期が被っており、よく比較される事件があります。
相模原の障害者施設やまゆり園で起きた、無差別殺傷事件です。
大勢の方々が亡くなったことや、無差別に起こされた点で、京都アニメーション事件と似ていますよね。
しかも、こちらの事件は裁判の判決が下され、ひとつの節目を迎えました。

ところが、メディアでの取り上げられ方は、どうだったでしょうか?
少なくとも、新聞やネットでは京都アニメーション事件に比べ関心度が低く、早くも風化し始めているように感じられました。
後者の事件は、より重くて難しい課題を抱えているため、それから目を逸らしているように思うのです。(これについては、一部の専門家の方も指摘していました。)
私の主観かもしれませんが、どうにも違和感を拭えなかったので、今回のテーマとして書くことにしました。

一般大衆の本心が見え隠れ

私が子供の頃と比べると、現代の障害者を取り巻く環境は、随分と様変わりしました。
バリアフリー,障害者雇用,パラリンピック…
世の中は、垣根のない障害者社会を目指して、良い方向へ進んでいるように見えます。
でも…、本当にそうでしょうか?

仮に、健常者との垣根が無くなっているなら、上で挙げた2つの事件は、同程度に関心を持たれていいと思うのです。
しかし、実際には明らかな差が生じました。
メディアが取り上げる話題というのは、いかに一般大衆が食い付くか?…、結局はコレに行き着きやすいものです。

つまり、世間の関心度がメディアに投影されているようなもので、誤魔化しようがない事実だと思いました。
もちろん、何事も決めつけは良くないですが、私はこの差に強い違和感を覚えたのです。
では、その違和感は、何処から生じるのでしょうか?

誰にでも差別の心はある

どんなに教養のある人も、分け隔てない振る舞いができる人も、差別の心を持っているものです。
たまに、非の打ち所がない聖人君子のような人がいますが、そういう人も例外ではないでしょう。
それを、 差別の心を持っていない風に振る舞うから、違和感として表れる のだと思います。

例えば、子供の頃に運動会で、走るのが遅い人っていましたよね。
そういう人を見て、形だけは応援するものの、心の中で見下していませんでしたか?
私も、走るのが遅かった一人でして、私が走り出すと変な空気になるのが、嫌で堪りませんでした。
ところが、クラス替えで自分よりも走るのが遅い人が現れた途端に、私はその人を見下して優越感に浸っていました。

些細な例ではありますが、 人というのは自分より能力の劣った人間を、見下したり距離を置いたりしてしまいがち です。
自分の優位性を確保したり、平均的な多数派へ居場所を作って、安心しようとするのでしょう。
これこそが、差別心の芽だと思うのです。

本心と向き合うことが大事

もっとも、差別の心は誰にでもあるから、開き直って差別をしてしまえ…なんて、頓珍漢なことを言いたい訳ではありません。(そんなことを思う人は、殆どいないでしょうが…。)
大事なのは、 自分の中にある差別の心をまず認めて、こうであってはいけないな…と反省すること なんですよね。
この反省がないことには、いくら形だけ取り繕っても、何も始まらないと思うのです。

この辺りの問題については、ミュージシャンやお笑い芸人の世界で、皮肉を込めて表現している人がいますよね。
例えば、甲本ヒロトさん、鳥居みゆきさん…
今回の記事は、重くて難しいテーマに踏み込みましたが、こういった表現者のメッセージに触れるのも、考えを深める方法の一つだと思います。

上で挙げた2大事件をめぐっては、命の尊さと平等について、問題提起がなされていると感じます。
また、違和感に気づいている人は沢山いると思いますし、ネット上でも様々な議論を見かけます。
その違和感を放置するのではなく、いま一度じっくりと考えるキッカケにすることが、今の社会に必要なことではないでしょうか?

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