少数派への差別の心は誰にでもある

i-think ふと思うこと

同時期に起きた2大事件

京都アニメーション事件から1年が経ち、各種メディアでは大々的に取り上げられました。
私は仕事柄、複数の新聞に目を通すのですが、どの新聞社も何面にもわたって、関連記事の一色でした。
それだけ、事件としてのインパクトが大きく、世間の関心も高かったことが伺えます。
もちろん、大勢の方々が亡くなりましたし、とてもショッキングな事件だったと思います。

ここで、年は違いますが、同じ時期に起きた大事件がありますよね。
相模原の障害者施設やまゆり園で起きた、無差別殺傷事件です。
この事件、大勢の方々が亡くなったことや、無差別に起こされた点で、京都アニメーション事件と似ていると思うのです。
しかも、こちらの事件は裁判の判決が下され、ひとつの節目を迎えていました。

ところが、メディアでの取り上げられ方は、どうだったでしょうか?
私は、テレビを見ないのでそちらの方は分かりませんが、少なくとも新聞では京都アニメーション事件に比べ、実にサラッと触れた程度でした。
この差は、いったい何なのでしょうか?

一般大衆の本心が見え隠れ

私が子供の頃と比べると、現代の障害者を取り巻く環境は、随分と様変わりしました。
バリアフリー,障害者雇用,パラリンピック…
世の中は、垣根のない障害者社会を目指して、良い方向へ進んでいるように見えます。
でも…、本当にそうでしょうか?

仮に、健常者との垣根が無くなっているなら、上で挙げた2つの事件は、同程度に取り上げられていいと思うのです。
でも…実際には、歴然とした差が生じた。
メディアが取り上げる話題って、いかに一般大衆が食い付くか?、結局コレに行き着きやすいものです。

つまり、世間の関心度がメディアに投影されているようなもので、これは誤魔化しようがないと思いました。
もちろん、何事も決めつけは良くないですが、私はこの差に強い違和感を覚えました。

誰にでも差別の心はある

どんなに教養のある人も、分け隔てない振る舞いができる人も、差別の心を持っていると思うのです。
たまに、非の打ち所がない聖人君子のような人がいますが、そういう人も例外ではないでしょう。

例えば、子供の頃に運動会で、走るのが遅い人っていましたよね。
そういう人を見て、形だけは応援するものの、心の中で見下していませんでしたか?
私も、走るのが遅かった一人でして、私が走り出すと変な空気になるのが、嫌で堪りませんでした。
でも、クラス替えで自分よりもさらに遅い人が現れたとたん、私はその人を見下して優越感に浸っていました。

些細な例ではありますが、人というのは自分より能力の劣った人間を、見下したり距離を置いたりしてしまいがちです。
そうすることで、自分の優位性を確認したり、平均的な多数派へ入って、安心しようとするのでしょう。
これこそが、差別心の芽だと思うのです。

本心と向き合うことが大事

もっとも、差別心は誰にでもあるから、開き直って差別をしまくれ…なんて、頓珍漢なことを言いたい訳ではありません。(そんなことを思う人はいないでしょうが…。)
大事なのは、自分の中にある差別心をまず認めて、こうであってはいけないな…と、反省することなんですよね。
その反省がないことには、いくら形だけ取り繕っても、何も始まらないと思うのです。

この辺りの問題については、ミュージシャンやお笑い芸人の世界で、皮肉を込めて表現している人もいますよね。
例えば、甲本ヒロトさん、鳥居みゆきさん…、といった方々です。
今回の記事は、重くて難しいテーマに踏み込みましたが、こういった表現者のメッセージに触れるのも、ひとつの方法だと思います。

今回の2大事件をめぐっては、命の尊さと平等について、難しい問題提起がなされていると感じます。
また、違和感に気付いている人は沢山いると思いますし、ネット上でも様々な議論を見かけます。
その違和感を無視するのではなく、いま一度じっくりと考えるキッカケにすることが、今の社会に必要なことではないでしょうか?

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