物を消費するだけの生活に、ふと虚しさを感じることがありませんか?
それは、人として真っ当な感覚であって、人生を考え直すキッカケになると思うのです。
日本の消費社会に疲れた人へ
私たちが住む日本は、とても不思議な国です。
資源に乏しい国でありながら、お金さえ払えば何でも手に入ります。
世界中の美味しい食べ物を、すぐに食べることができます。
そんな恵まれた国にいながら、日本人の幸福度は低いと言われています。
その証拠に、充分すぎる消費生活を送っていて、ふと虚しさを感じることはありませんか?
その虚しさは、人として真っ当な感覚なのです。
そこで今回は、消費するだけの生活(人生)について、掘り下げて書いてみました。
消費するだけの生活が虚しい理由
人が生活するためには、物を消費することは避けられません。
では何故、ふと虚しく感じるのでしょうか?
「人間は考える葦である」という言葉は、一度は聞いたことがあると思います。
人生とは何か?、といった問題を考える動物は、人間ならではなのです。
にも関わらず、物を消費するだけの生活なのは、犬や猫と何ら変わらない訳です。
人生は 喰て寝て起きて 糞たれて 子は親となる 子は親となる
とは、とんちで有名一休和尚の言葉ですが、これを読んでどう感じますか?
別に何も感じない…という人は、今のままで平気なのでしょう。
一方、自分のことだ…と受け止められた人は、だからこそ、消費生活に虚しさを感じるのです。
今までの生き方を反省して、人生を考え直すことから始めましょう。
消費社会の虚しさから抜け出すヒント
かつての私は、消費社会に虚しさを感じながらも、その虚しさを紛らわすため、さらなる消費に走っていました。
そんな悪循環から抜け出せたキッカケは、仏教の精神を教わったことでした。
消費を減らす(足るを知る)
消費するだけの生活が虚しいとは、とても大事な気づきです。
まずは、今の生活を振り返って、余計な消費を減らしましょう。
人の物欲は、ある時に満たされたと思っても、次の瞬間には更に多くを求め、上は切りがないのです。
例えば、虚しさを紛らわすために消費する物があれば、真っ先に止めることをお勧めします。
仏教には「足るを知る」という言葉があり、自分の身の丈に合った物だけ持つことが、心穏やかに生きるヒントとなります。
人に尽くす(自利利他)
消費するだけの生活とは、突き詰めて考えると、自分中心の生き方とも言えます。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に出てくる、主人公カンダタが当にその例で、仏教では「我利我利亡者」と言います。
そして、我利我利亡者と対する言葉に、「自利利他」(じりりた)があります。
これは、見返りを求めることなく、人に親切を行うことです。
見返りを求めるとは、私が誰々に何々をしてやった、という心です。
この心を排して人に善を施すのは、とても難しいことに気づくのですが、その気づきと反省が大事なのです。
生きる指針を持つ(人生の目的)
学生を終えた頃の私は、将来の目標すら真剣に考えず、ただ漫然と生きていました。
そのツケが回って、社会人になったある時、自分は何をしたいのか分からない、という壁にぶつかりました。
丁度その頃から、物の消費が激しくなったのを、今でもよく覚えています。
生きる指針をシッカリと持っていれば、目標に向かうことへの充実感が得られるため、物の消費へ逃げることが少なくなります。
言い換えれば、物の消費で人は幸せになれないことが、しみじみと分かってくるのです。
正しい人生の目的を知ることが大事
ここで、人生の目的は人それぞれ…、と一般的には言われますが、それが分からないから苦労するんですよね。
仏教では、世間で言われる幸せを目的にしても、心から幸せにはなれない、と説かれています。
何故なら、先ほども少し触れました通り、上を求めたら切りがないため、得たとしても長続きしないからです。
世間虚仮、唯仏是真。
とは、聖徳太子の有名な言葉です。
世間虚仮とは、この世のものはすべて無常のものであり、嘘偽りであり、仮のものである、という意味です。
唯仏是真とは、唯仏のみ、そしてその仏が説かれた教えのみが真実である、という意味です。
世間事の何を目指しても虚しい…、と感じている人は、まず仏教の書物を手にとって、人生を考え直すキッカケになればと思います。
間違っても、占いや新興宗教へ迷うことの無いよう、ただ願うばかりです。