私たちの生活は、消費なくしては成り立ちません。
…が、消費するだけの毎日って、虚しくないですか?
その感覚は、大切にして欲しいから、思うことを書きました。
消費を促す社会と踊らされる消費者
世の中は「アフターコロナ」の段階に入り、コロナ禍前の状態へ戻そうと躍起になっています。
やり過ぎでは?、と違和感を覚える光景は、「ウィズコロナ」の頃から見られました。
例えば、居酒屋でフェイスシールドをして飲み会…、ハッキリ言って意味ない(汗)。
そこまでして呑みたいか?、と呆れてしまいました。
もっと酷かったのは、商業施設のゲームコーナーにあるメダルゲーム。
飛沫防止シートだらけの中、小さな子供と親が遊んでいるのを見て、開いた口が塞がりませんでした。
- 感染拡大が止まらず、怖い思いをしたんじゃないの?
- 感染リスクを冒してまで、消費しまくりたいの?
- どうして、元の消費生活に戻そうとするの?
このような違和感を抱いた人は、私だけではないと思いたいです。
消費するために働いているのか?
私は、社会人になってから20代前半の頃、繰り返しの毎日に疑問を抱きました。
いったい、何のために働いているのか、分からなくなったんです。
- 平日は毎日、同じ電車に揺られ、同じ職場で仕事をする
- 昼休憩には、同じ食堂へ行き、同じ食事を腹に掻き込む
- 帰宅したら、テレビを見ながら夕飯、風呂に入って寝る
翌朝に目が覚めれば、また同じことの繰り返しです。
こんな毎日を過ごしていれば、相当なストレスが溜まります。
そして休日は、ストレス発散のためにお金を浪費するだけ…。
仕事でストレスが溜まる→ストレス発散にお金を使う→お金を稼ぐために仕事をする…。
私は、無意味な繰り返しの生活に愕然とし、抑うつ状態に陥りました。
繰り返しの生活に疑問を持たない人は、それで良いんだと思います。
「繰り返しの毎日を耐えて、自己管理するのが社会人だ!」
…なんてことを、平気で言う人は結構います。
でも、ここまで読み進められた方は、疑問や違和感を覚えたからだと思います。
その疑問や違和感、大切にして欲しいです。
「人間は考える葦である」に立ち返る
確かに、人間の営みを突き詰めれば、結局は消費生活に行き着きます。
しかし、そこに何の疑問を感じない、そんなもんだろうと受け流す…、人間としてどうなんだろう?と感じます。
コロナ禍を機に立ち止まって、考え直す段階ではないでしょうか?
人生は 喰て寝て起きて 糞たれて 子は親となる 子は親となる
「一休さん」こと、一休和尚の言葉です。
この言葉は、「人生なんてそんなもんだ」という意味では、決してありません。
現代人の行き過ぎた消費生活ぶりに、痛烈な皮肉と疑問を投げかけていると、私は感じています。
日常に疲れてふと立ち止まった時、この言葉が身に染みると思います。
非常に難しい課題ですが、消費生活の虚しさと向き合うことが、人間らしい生き方ではないでしょうか?
コロナ禍は、社会に大きな変化をもたらし、生き方を見直すキッカケを与えられたと感じます。
今までの「当たり前」に疑問を持ち、向き合うことが大事だと思うのです。